遺族ご挨拶
長女のルミ子でございます。遺族、親戚を代表しまして、一言お礼のごあいさつ申し上げます。
本日はご多忙のなか、母 米沢富美子のお別れ会 にお集まりいただき、心より御礼申し上げます。また、会場をご準備いただいた日本記者クラブさまや、呼びかけ人となっていただいた関係団体の皆様、展示にご協力していただいた皆様にも感謝いたします。
とくに事務局として会の準備を指揮してくださった森ひろゆき先生、小出重幸さま、高橋真梨子さま、由利伸子さまには、お礼の言葉もございません。
また本日心温まるお言葉を頂戴したみなさまにも、心より御礼申し上げます。そして遺族として、ご参集のすべての皆様に深く感謝する次第です。
開会時の森先生のお言葉でもありましたように、母は、昨年4月7日に大阪の実家で当時100歳になる祖母の介護中に脳梗塞を発症しました。心臓の不整脈が原因という心原性のものだそうです。私は現在ロンドンに住んでいるのですが、泣きじゃくる妹から母が倒れたという電話が入った時には一瞬時が止まったかのように凍り付きました。遠くに住んでいると、いつかはそういう知らせを受けるのだろうという思いは漠然とあったのですが、まさかこんなに早くその時が来るとは思いもしませんでした。そのたった一週間前には父の命日に合わせて帰省していた私を「千鳥ヶ淵の桜が奇麗だから見にいこう」といって自分でじっくりと計画したルートを半日かけて連れてまわってくれたばかりだったので、余計に信じられない思いでした。
その日のうちにロンドンをたち、大阪の病院に駆けつけた時は既に母が倒れてから24時間以上たっておりましたが、病床でぱっちりと目を開けた母は私の顔を見て「あ!」とかすかな声をあげました。私がとんで帰ってきたので自分のおかれている状況が深刻なものなのだというのを認識したのかもしれません。でも意識はしっかりしており、ホッとしたのを覚えています。
発作の直後は半身不随の状態でしたが、一週間もしないうちにリハビリで完全に身体の自由が戻り、主治医の先生に「驚異的な回復だ」とまで言われました。東京の病院に転院した時も、自分で歩いて病室までいってお医者様やナース達に驚かれるくらいでした。結局リハビリ入院の必要なしという主治医の判断で5月初めには退院し、自宅に戻りました。東京に住む妹が数日ごとに通い、私もロンドンから毎月戻って母の回復に向けて努力をしておりました。
昨年は異常な猛暑の影響で夏に入って一時は脱水症状を起こしたりしましたが、秋には元気を取り戻し、9月には下村満子先生主催の月例の下村塾で一時間に及ぶ講演会を成し遂げ、素晴らしい反響をいただきました。私も十数年ぶりに母の講演会に付き添ったのですが、大病をして間もないというのにパワーポイントを駆使して、あんなにも聞き手の皆さんを引き付けるような話ができる母を見て、うれしいやら、頼もしいやら、何とも言えず頬がゆるんで仕方ありませんでした。後で母に「ルミがニヤニヤしてるから、気持ち悪かったわよ」言われてしまいました。
翌10月には母の生まれ育った大阪、吹田市が設立した「米沢富美子・子供科学賞」の表彰式に出席し、そちらでも講演会をしました。
ところが、その2週間後から、脳梗塞の後遺症と思われるてんかんの発作を何度かおこして急激に体力が落ちていき、12月に入ると今まで一度も弱音を吐いたことのない母が「そこそこ満足な人生だった。」などと気弱なことをいうようになったのです。お友達や教え子の方達にもそういったメールを出していたようで、皆さんを心配させていたようです。
それでもお正月あけ元旦には七福神巡りをしたり、6日に先ほど高木様よりお話があったように旅仲間のゲンカイグループの方々にお食事に誘っていただいてお料理を見事にたいらげるなど、私たちに希望を与えてくれるような頑張りようでしたが、残念ながら、去る1月17日に急性心不全で亡くなりました。苦しむこともなく、眠っているような安らかな死に顔でした。
13年前に祖母の介護がはじまり、大幅に活動を縮小して介護と執筆活動に専念するようになった母ですが、祖母の介護度があがると同時に母も年齢を重ねていくことになり、二重に介護生活の負担が増していきました。老々介護の現状は本当に悲惨なもので、私も母を通して日本ではまだまだ家族への負担があたり前のようになっている現実を目の当たりにしました。
そして、その母が愛してやまなかった祖母は、母の後を追うようにして先月3月12日、母が先だったことを知らされないまま天寿を全うしました。享年101歳でした。今頃二人は父や祖父のもとでそれぞれの人生を振り返りながら仲良く語り合っていることと思います。
私が最後に母と言葉を交わしたのは亡くなる3日前、ロンドンから電話をした時です。元気そうな声で「ママは元気だからね。心配しないで。ママは強いんだから、あなたたちを守ってあげるから、悪者をやっつけて、守ってあげるから」
それが最後に聞いた母の言葉になりました。
ご承知のとおり、母は気が強く、自分で決めたことは必ず貫き通す性格でしたので、皆様にもかなりの御無理をおかけしたかもしれません。子供のころから我が母ながら強烈な人だなと常々思っておりました。
でも私にとっては母親であると同時に先輩でもあり親友でもありました。仕事、キャリアや友人関係のぐちを些細なことでも聞いて適切なアドバイスをくれる、大事な存在でした。女性であるからという理由で自分に限界をひくことなく、自由に好きなことをするべきだということを体現してくれました。
欧米では近年Me Too運動がさかんになり、昨年はイギリスでも女性に参政権が与えられて100年の記念行事が国を挙げて行われていました。この100年の間にイギリスも随分変わり、その間二人の女性の首相が誕生しました。ここ数年ではBrexitで国を混沌におとしいれたキャメロン失脚後、欧州連合との交渉に絡んでスコットランドの二コラ・スタージョン首相、北アイルランドのリーダー、アーリーン・フォスターなどの女性リーダー存在が前面に出てくると同時に、政治分野で有名なBBCの女性ジャーナリストがメイ首相を問い詰める情景がテレビで日常的に繰り広げられるなど、女性が大活躍しています。
日本は30年イギリスに遅れていますが、先日の上野千鶴子先生の東大入学式での祝辞が波紋を呼ぶなど、少しずつですが変化しているようです。30年後に日本が今のイギリスのようになっているかどうかはわかりませんが、母の遺した業績がこれから活躍する女性たち、そしてそれを支えていく男性たちのインスピレーションに少しでもなれば、母も大満足ではないでしょうか。
23年前に父に先立たれた直後はかなりのダメージを受けた母ですが、その悲しみをエネルギーにかえ、次々と目標をたてては達成していくということを繰り返していたように思います。
脳梗塞で倒れた時は、母のキャリアのブレークスルーとなったコヒーレントポテンシャル近似の英訳本作成の真っ最中でした。常々、人生最後の大仕事と言っていた、その仕事を完成せずに亡くなったのは、さぞや無念であったかと思います。闘病中もパソコンに向かって執筆している姿が忘れられません。
今後、非力ではありますが、私なりに遺された家族とご友人の皆様とともに母の残した仕事をいつか完成させたいと思っております。
本日お集まりの皆様が、母の底抜けに明るい笑い声、男女・年齢問わずに限界をひくことなく厳しく指摘する言葉、ポジティブに人生を開いていく姿勢、あるいはおちゃめな仕草など、何かしらを思い出として心に留めて下さり、そこから明日に向かうエネルギーに変えていっていただけるのなら、遺族としてこれにまさる喜びはありません。
本日は誠にありがとうございました。

